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それでも、日本人は「戦争」を選んだ [子育て]

著者は東大文学部で近代日本史を教えている。専門は1929年の大恐慌からは甚る世界経済危機と戦争の時代、1930年代の外交と軍事。

前書きで、1930年代の教訓として二つの点を挙げていた。
1937年の日中戦争のころまで、国民は政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改革(労働者の団結権や団体交渉権を認める法律整備など)を求めていた。
民意が正当に反映されることによって政権交代が可能となるような新しい政治システムの創出をのそんでいた。
しかし、既成政党、貴族院、枢密院などの壁でなかなか実現しないなか、軍部が疑似的な改革推進者として人気をあつめていく。軍部の改革は自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善などが盛られていた。ただ、軍なので戦争がおこればそちらが優先されてしまう。
つまり、国民の正当な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民い本来見てはならない夢を疑似的に見せることで国民の支持を得ようとする政治勢力が現れないとも限らないという危惧と教訓。

現代における政治システムの機能不全とは、小選挙区が議席の6割を占めるので、投票に熱意をもち、かつ人工的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重されうること、本来国民の支持を失ったときに解散総選挙を行うべきなのに、与党は人気がないときは解散総選挙を行わないこと。
人工の二割を占める高齢者の投票率は高く、2005年の選挙では8割。対して20代は4割。若者の意見は反映されにくい構造がある。これからの政治は若者びいきくらいでちょうどよいのでは?

若い人には自分たちが期待の星だと自覚して、特に近代史を特に学んでもらいたい。
この本は2007年の年末から翌年のお正月にかけて、5日間にわたって、神奈川の私立男子校・栄光学園で中学1年から高校2年までの歴史研究会のメンバーを対象に行った講義をまとめたもの。

序章 日本近代史を考える

9・11テロと日中戦争の共通点、ともに国と国との戦争ととらえず、国内の悪者を警察が取り締まる感覚でおこなわれた。このような視点をもつとき歴史を面白いと感じるのではないか?

歴史は暗記物というイメージは試験の形態のせい、限られた時間で、歴史的事件の因果関係などを書かせて採点するのは難しいので、おこった順に並べよみたいな問題になるから。でもPISAの調査などで論述の大切さがいわれてきてから、少し変わってきている。

リンカーンの演説と日本国憲法前文の共通点の指摘。
膨大な戦死者がでたとき、国家は新たな憲法・社会契約を必要とする。

戦争かつて政治的手段の延長だったが、第一次世界大戦で懲りた国々が不戦条約を結んだことにより、この方法は封印され、戦争が許されるのは自衛戦争と侵略国に対する制裁行為だけになった。
ルソーは戦争は、敵対する国家の憲法を攻撃するといった。相手国の社会の基本秩序(広い意味での憲法)の変容を迫るものとした。18世紀の人間であるルソーの恐るべき洞察。
戦後アメリカが行った憲法の大きな書き換えは「国体=天皇制」の否定。

歴史的なものの見方は、「問い」に深く心を衝き動かされたときにはじめて生じる。苦しんで発する「問い」の切実さによって導かれる。「問い」が教科書にかかれていたら歴史はもっと面白いと思う。

E・H・カーという英国の歴史家の「問い」。なぜ20年(二つの世界大戦の間)しか平和は続かなかったのか?カーの結論は、連盟が間違ったことを敗戦国=ドイツに要求したからというもので、当時としては信じられないくらい大胆なものだった。このころの一般論は条約をドイツに守らせなかったから=弱腰だったからというものが主流だった。言葉による抑制ではなくイギリスがすべきだったのは海軍力の増強だと主張した。それができなければ、連盟の主張にのっからず、ドイツと真剣に交渉すべきだったと。また、歴史は科学であり、歴史家は特殊のなかに普遍をみる、といった。また、歴史は教訓を与えるが、それが災厄をもたらすこともあることを、ロシア革命でレーニンの後継者がトロツキーでなくスターリンだったことなどを例にあげていた。

アメリカの歴史家アーネスト・メイは、「アメリカがベトナム戦争に深入りした理由」という問いから、歴史を教訓とするとき、個人のもっている知識や解釈が偏って適用されること、また意図的に都合のよい解釈がされることをベトナム戦争の研究から指摘している。そして、ローズヴェルトがウィルソンの歴史を穏健すぎると解釈したため、無条件降伏にこだわって、終戦までが長引き犠牲がおおく、ソ連の台頭を許したと批判している。また中国を喪失したというトラウマがベトナム戦争の泥沼化をまねいたとも指摘している。


1章 日清戦争

アメリカの歴史学者ウォーレン・F・キンボールが、日本と中国は二国間の均衡をどちらがリードするか長い間あらそってきた、軍事衝突はその一部であるといった。
明治以降の日本と中国の歴史を二国間が争う歴史としてみると、侵略・被侵略の物語でないものがみえてくる。

列強が中国や日本から利益を上げようと考えたとき「均等な待遇」が重要になる、それを可能にするのは民法と商法。
英国にしたら植民地化して守らなければならなくなるより、ほかの列強と同じ待遇をうけて、どこかに偏らない管理運営ができればいいという考え方。これは貿易力があり、いざというとき海軍力もある強いものの理論。ロシアの南下を脅威と考えていたので、日本には法的整備をして列強の紛争に巻き込まれない力をもつことを望んだ。
一方で中国は、華夷秩序を安価な安全保障の制度として働き、列強との間に安定した関係があった。

80年代半ば、中国では李鴻章が外交のトップにつき、内乱を武力で鎮圧したり、朝鮮への影響力を強める。これまでの中国とは明らかに対応が違ってきた。
陸軍トップにいた山縣有朋などは警戒して軍備を増強すべきと説く。李鴻章と同時代人の福沢諭吉は、「脱亜論」で中国や朝鮮をみすてて西欧文明につくべきといった。これを文字通りに読むのではなく、当時甲申事変などで清国に後れをとっていた日本が、まず清国を打ってから朝鮮に進出すべきだと説いたという解釈もありえるとしていた。
ウィーン大学の政治経済学教授だったローレンツ・フォン・シュタインは、伊藤博文や山縣有朋に影響を与えた人物で、伊藤には憲法を、山縣には「主権線・利益線」を教えた。
主権線=主権の及ぶ国土の範囲、利益線=国土の存亡に関わる外国の状態。ロシアのシベリア鉄道敷設によって日本が心配すべきは朝鮮の占領である。そして朝鮮を占領せず、中立国になるように列強や清国の言質をとるべきだと教えた。これが1889年6月。

日本の世論については千葉の名望家で自由民権運動をしていた人の日記や、帝国大学法学部の吉野作造らの研究から、「国家の独立なくして個人の独立なし」と考えていた人が多いと解説。第一回帝国議会に立候補できたのも、投票できたのも地主たちで、そこが最大勢力だった。税金をさげたりといったことが関心事になりがちなはずだが、こと外交や軍事力といった点では、山縣らの意見とあまり変わらなかったことがうかがえる。

自由党の新聞が選挙権もある知識層むけのものと一般庶民向けにあったこと、民権派の矛先は藩閥政治の利権独裁などにあったこと、かれらが増税させないために政府の経費削減をすすめ、海軍の汚職などをたたいて戦費をねん出したこと。福沢諭吉が朝鮮を併合して官僚ポストをつくれといっていたことなど。外務大臣の陸奥宗光はケチのつけられない開戦の口実をつくるべきだといっていたこと。これらの資料をもとに、当時の日本の考え方として、日清戦争は経済的に利益になるし、軍費もあるしで賛成する人が多かったことがわかる。

さらに陸奥の日記などを引用しながら細かい開戦までのいきさつをたどる。朝鮮をめぐる清国との対立や、ロシアの南下を恐れるイギリスが日本と不平等条約改正などをして、戦争へのGoサインを出すなど環境がととのっていく。

10か月の戦闘で日本の戦死者は1万3488人。清国と腸線は3万人といわれている。結果として日本は国家予算の3倍の賠償金を得て、ロシアへの軍備や八幡製鉄所に使う。朝鮮については独立国であると清国に認めさせる。中国の遼東半島を得るが、これを3国干渉で失い、この不満が普通選挙運動につながっていく。生徒から、ロシアとの戦争で徴兵されるのが予想されるから、選挙権がないのは不利だという意見がだされていておもしろかった。


2章 日露戦争
日清戦争、日露戦争を戦ったあと、日本の国のしての格があがり公使館だったのが大使館になった。不平等条約も撤廃されていく。アメリカのスタンフォード大学のマーク・ピーティは日本の為政者の間には力により不平等条約を打破していくという考えの一致があったと分析している。
朝鮮の大朝鮮国は1897年に大韓帝国と名前をかえているので、韓国、あるいは韓半島とこのころは読んでいるのが多い。

日露戦争は日清戦争の10年後におこり、戦死者は双方20万人以上といわれている。日本にとっては日清戦争の10倍の戦死者を出した戦争だった。
日露戦争をロシア側で戦った将校の記録として、陸軍と海軍が強調したのが特徴といわれている。旅順をめぐって陸軍の第3軍が7割の戦死者を出しながら陥落させて、海軍の日本開戦に大きく貢献したことを指す。
犠牲の大きかった戦争は、日本人の印象として20万の犠牲者と20億の金を満州に投じてきたなどのフレーズを残し、のちの日中戦争への伏線となる。

三国干渉のあと、朝鮮の朝廷内でロシアに接近する動きがあり、日本軍の将校が武力で介入して、閔妃を暗殺。反感を買ってロシアよりの政権がたち、大韓帝国を名乗り、近代化政策をおしすすめる。
ロシアは一番に大韓帝国を承認しているが、ロシアの関心はむしろ満州にあり、朝鮮半島にはあまり興味はなかったと思われる。李鴻章は1896年のニコライ2世の戴冠式によばれ、すごいわいろをもらったといわれていて、遼東半島を取り戻してくれたというロシアへの好感も利用して、満州に鉄道を引く権利がロシアとフランスの銀行に与えられる。さらには旅順・大連の租借権も手にいれる。日本からみると日清戦争で得た物をロシアがもっていったようにみえる。これによってロシアは遼東半島の南端に不凍港を持つことができるようになった。

1900年義和団の乱をきっかに北清事変がおこり、この変に乗じたロシアは満州や北京に軍を派遣して、事変がおさまっても駐留を続ける。清側はロシアに不信感をもち、李鴻章もなくなり、両国の間は再び悪くなっていく。またイギリスはロシアの態度を警戒して日本に接近し、日英同盟が締結さえる。
従来日本はロシアと戦うためにこの同盟をしたという解釈が多かったが、当時の日本の選挙結果をみると、日英同盟を結んだことで海軍の軍備を拡張する必要があまりなくなったとする政党が多数派だった。国民のほとんどは戦争を望んでいなかった。
清国内部でも立憲君主制が模索され、多くの留学生が日本にやってきて、故国での革命の中心になっていく、士官学校にも多くの留学生がいた。

当時の最長老の元老山縣有朋と桂首相、小村外務大臣らの書簡を詳細に研究した結果、日本は日露戦争に開戦直前まで慎重だったいうことがわかってきた。むしろ日露交渉で状況を打開するのを期待していた。
一方のロシアの資料が公開されてわかってきたのは、当時ロシアは地方の反乱があり、あまり戦争をする余裕はなかったこと。議会がなく、大臣が直接政治をしていたが、極東方面の担当になったベゾブラーゾフという人が、お金をかけて鉄道を守るより朝鮮半島を抑える方が安上がりだと進言していたことなどがわかってきた。
日露交渉において、日本が安全保障上最重要視していた朝鮮半島において、日本の「優勢なる権利」をロシアが認めなかったこと、一方で北緯39度線から北を中立化して日本が軍略しない、朝鮮海峡をロシアが航行するのを認めるなどを主張したことが、結局は日本が戦争を選ぶことになったと解説していた。つまり日本にとって朝鮮半島が生命線と感がられていたことを理解していなかったと。
ただし、これは日本側の理由で、公には日本の主張はロシアが遼東半島の利権を独占しているから門戸開放すべしというものになる。こうしないと列強からの支援はうけれないから。この時代の戦争は、日清戦争がロシアとイギリスの代理戦争だったように、代理戦争の意味合いが強く、日露戦争では、ロシアをドイツとフランスが、日本をイギリスとアメリカが支援した。
また、北清事変以降、ロシアを警戒する中国は、表向き中立するが、資金面で寄付してくれたり、現地の農民が諜報活動を支援するなどの協力をしてくれていた。

この戦争の結果として日本は韓国における「優勢なる利益」を手にいれる。そして遼東半島は列強に等しく門戸開放される。
日本では、賠償金がとれなかったなどの不満がうまれたが、もっと重要なのは戦費を賄うために税金が一時的にあげられて、そのため普通選挙権の対象になる人が2倍に増えたこと。このときはじめて実業家の政党が誕生している。議員として選ばれる人たちが地主から経営者などに変化していく。また被選挙権の納税資格がなくなり、多様な人たちが支援さえあれば議員になれるようになった。


3章 第一次世界大戦
第一次世界大戦は世界中で1千万人の死者、二千万の戦傷者がでたが、日本の線死傷者は1250人。だから世界と日本でわけて考えてみる。

世界では、伝統をもった3つの王朝が滅んだ。ロシアのロマノフ朝。ドイツのホーエンツォルン朝。オーストリアのハプスブルグ帝国。あたらしい社会契約の現れといえる。
日本では原敬の政党内閣が誕生。元老ではなく、外務、陸軍などの大臣も原敬率いる政友党から選んだという大きな変化だった。
また植民地に対する批判的考えが生まれた、獲得競争が戦争の原因になったためである。これ以降、統治委任という形式がとられる。内情は植民地ではあったけど。
日本は日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州と中東鉄道南支線と付属の炭鉱、沿線の土地、その後韓国を併合。第一次世界大戦では山東半島と南洋諸島の旧ドイツ領を獲得。マーク・ピーティによると日本の領土獲得は安全保障上の利益が最優先されているのが特徴といった。欧米の列強が植民地を過剰人口のはけ口や失業問題の解決策としていたのと違うとの指摘である。
ヨーロッパで開戦したこの戦争に日本はドイツに一方的に宣戦布告して参入。その背景には太平洋を挟んでお互いを意識しはじめたアメリカとの関係がある。アメリカでは日本はロシアに勝った好戦的な国とされていて、カルフォルニアでは日本移民の排斥運動がおこっている。そうした背景のなか南洋諸島のドイツ領の意味がでてくる。またドイツ領だった青島は中国に軍を進出させるときに重要になる膠済鉄道があった。

戦死者がそれほどでなかったが、日本国内には大きな危機意識が起こった。その理由はなにか?
・参戦にあたって、イギリス・アメリカの干渉があった。イギリスは中国の利権がなくなるのを恐れて、日本の軍事的範囲を制限しようとし、アメリカも中国での領土拡張を制限する密約を政府と結ぶ。これが日本の野党に知られ政府批判が起きる。日本の主権がおかされているというものである。
・パリ講和会議で、日本が主張したのは泥棒したのは自分だけじゃないという宣伝だが、世界には認められなかった。日本が提案した人種平等案などは認められなかった。ウィルソンが主張する民族自決主義にはかなり限定された地域を想定していて、植民地は想定されていなかった。
・民族自決を背景にした朝鮮半島の3・1独立運動が講和会議の間におこり、日本の統治が残酷なのではと議論されはじめた。
パリ講和会議には、ジャーナリストなどとして様々な人たちがやってきている、吉田茂もその一人で「空前の外交戦」を見に行きたいと手紙を書いている。ケインズも参加していたが途中でかえってアメリカのドイツへの政策に憤慨して本を書いている。あまりに絞りとってしまえばドイツは賠償金を払いきれなくなってしまうとしてウィルソンの主張を批判している。一方でイギリス首相のロイド=ジョージは霊媒師といってほめている。中国の参戦して勝利したからドイツとの契約は無効で、山東半島の支配権は中国に戻っているという主張を、最も戦いの矢面にたったのはフランスとドイツであり、その間に日本と交わした約束をそう簡単に覆せないと、アメリカを一緒にけん制した。
結局山東半島の利権は日本に帰属するなど、主張のほどんどは通ったものの、日本はアイデンティティに傷をうけたといっていた。例えばアメリカでウィルソン大統領を批判するのに、日本の植民地支配が過酷で3・1運動がおこった。それなのにウィルソンは「そんな国」に加担しているという風に使われたのだ。結局アメリカ会議は国際連盟への加入を認めなかった。


4章 満州事変と日中戦争
満州事変は1931年関東軍参謀の謀略によって起こされた。計画的なもの。
日中戦争は1937年7月7日、小さな武力衝突をきっかけに起こった。偶発的なもの。

1931年7月=満州事変前に東京帝国大学=現在の東大でおこなった学生の意識調査によると、88%の学生は満蒙での武力行使は正当であると答えている。これは満州事変の後でもそれほど数値はかわっていない。
日中戦争も日本人は戦争ととらえていない人が多かった。国内で悪者を退治する感覚だったのだ。

満州問題について日本人は自らの主権を脅かされた。あるいは自らの社会を成り立たせてきた基本原理に対するっ挑戦だと考える雰囲気があったと思われる。
パリ講和会議の外交官松岡洋佑は、衆議院議員になっていたが「満蒙は我が国の生命線」と主張していた。

清朝とロシアは両方とも崩壊し、二国間で結んでいた協定などはあいまいになる。満州では日本側が中東鉄道南支線に守備兵を置く権利と、中国側が鉄道に平行線を敷設できないとするものがグレーゾーンになった。こういったものは協調的な話し合いで双方が利益をだすように決着させるものだ。満州事変がおこるまではその方向で検討されており、世界的にみても日本の権利はそれほど認められていないとの認識があった、しかし「満蒙は我が国の生命線」などの主張で世論が中国が日本の主権を侵害しているという心理が国民に芽生え、それが軍部の行動を後押しして、国際世論からも離れていく状況をうみだしていく。このくだりも日本国内での講演会の様子など一時資料から丁寧に展開されている。
陸軍と外務省と商社が組んで、満州に既得権益を確立していく様子を個人の日記などから解説。清朝が倒れるときに、内蒙古の王族に借款を貸し付けたり、さっと既得権益を作り出す様子がかかれていたりする。軍部としては満州は自分たちがつくった権益という認識があった。満蒙への投資は80%が国がらみで健全な批判はおきにくく、国家に望む方向に人々が動きやすい状態ができあがっていく。

満州事変を計画した石原莞爾は第一次世界大戦敗戦後のドイツに留学し、消耗戦を勝ち抜くには経済封鎖を生き延びる体制が大切との考えを持つ。
陸軍の中堅幕僚の集まる木曜会などで、石原はアメリカと日本の航空機決戦が最後の戦争になり、ソ連には中国をもっていれば、その資源で何年でも戦えるなどと主張している。
軍人たちは将来の戦争にむけて満蒙を中国国民政府から切り離して支配下に置きたいと考えていて、国民にむけては中国が条約違反をしているなどと宣伝していた。そして世界恐慌がおこり国民の暮らし向きへの不満は高まっていく。

満州事変のときの内閣は若槻内閣、民政党政権だった。しかし内部で政友会との連携を模索したり、それに反対するなど分裂があり、また軍部が暗殺事件を起こすなど怖い存在になっていたことなどがあり、結局関東軍の暴走を十分におさえられなかった。関東軍も3年もかけて準備していたので、さまざまな方法で自分たちの軍事行動を止めようとする動きに対応していたこともある。

このとき国民政府主席の蒋介石は紅軍の撲滅のため江西省の南昌にいた。しかも国民党の広東派が反乱をおこしてその鎮圧もある状態だった。蒋介石は満州事変を公理に訴えるとして国政連盟による仲裁に持ち込む。手一杯だったほかに、実質的に東三省を支配する張学良と関東軍が話し合いを始めてしまうと、国民政府が手出しできなくなる可能性もあったためである。

連盟からはリットン調査団が派遣されるが、イギリスの考えとしては、ドイツを相手にするのに忙しく、日本には融和政策をとりたかったので、調査団の結論は経済的には満州における日本の権益を擁護するものになった。しかし、満州国は認められず、満州は中国の主権下にあるとされた。吉野作造などは、これ以上日本よりの報告は無理だろうと認識していたが、新聞は報告書を批判。戦争を肯定する流れができていく。
一番反対派と思われる共産党員などは3・15事件、4・16事件などで一斉検挙されて力をうしなっていたこと。初めての男子普通選挙で躍進した共産党は既成政党からも危険視されていた。また戦争反対と思われた合法無産政党は、服務兵士家族の保障について陸軍とおりあってしまった。生活苦からのことである。

日本人の中に「盗泉の水は飲むな」という余裕がなくなっており、また軍部を恐れて戦争反対といえない状況が生まれつつあった。
政友党と民政党は共同で議会で満州国承認を通すが、リットン調査団の報告通り国際連盟が満州国を認めないとした報告書を認めないだけで、連盟脱退までは考えていなかったし、実際規約からしては「勧告に応じない」だけでは脱退にはならないはずだった。
「国を焦土にしても」と答弁した内田康哉外相も、強気にでることで国民政府と交渉に持ち込む意図があったと思われる。実際蒋介石は共産党を倒すまで日本とは提携主義をとるつもりだったらしい。

しかし、この方法は松岡洋右らは、強硬論はほどほどにしてイギリスの提案していた融和方針で妥協すべきと、内田に手紙をだしている。イギリスの提案はソ連、アメリカをいれて中国と日本もいれて和協委員会をつくるというものだったが、内田はこの方法ではもっと日本に厳しくなると考えたらしく拒否している。実際のところはソ連やアメリカに余裕はなく、応じればまた違っていたかもしれない。

そうこうしているうちに陸軍がさらなる軍事作戦を起こす。これは日本国内では天皇も承認したものであったが、中国はこれを連盟に提訴して「連盟が解決につとめているとき、あらたな戦争に訴えた国は、すべての連盟の敵とみなされる」を適用しようとする。驚いた日本の斎藤首相が天皇に中止を願い出て天皇も中止をしようとするが、天皇の権威がおちるとして侍従らにとめられる。
こうして、日本は連盟脱退の道を選ぶしかなくなっていく。

満州事変から日中戦争に至る間、軍部が政治に関与するのは本来正しくないことであるが、世界恐慌の生活苦をよくしてくれる方法として軍部への支持が集まる。農村への低利融資実行などだ。戦争がはじまれば反故にされてしまうのだが。
陸軍の中でも統制派と皇道派があって、農村の生活をよくしようなどといっているのは統制派だった。彼らはドイツが負けたのは国民が経済封鎖に耐えられなかったからとして、国民の組織が戦争の勝利の鍵と考えていた。またソ連の脅威に対抗するために華北を手にしてそこに飛行機を配備するなどの計画を持つ。こうして満州国ができる。つまり安全保障のためだったのだ。
しかし、これにより日本と中国との貿易は減り、代わりにソ連やドイツの貿易が増えていく。これは日本の政策がまずかったのだが、軍は中国が日本製品のボイコットをしたからだと宣伝していた。

蒋介石は外交には人物を抜擢してやらせていたが、そのなかに胡適という頭の切れる人物がいた。彼は長期的にみて日本を退けるにはアメリカとソ連の二大大国の力が必要だが、今は両国とも余裕がない。だからまず中国が日本との戦争をひきうけて2・3年負け続けることだといった。それによって日本を脅威とする諸外国の力を引き寄せられるというのだ。胡適は駐米大使になっている。胡適には政治があるが、陸軍の作戦には政治がないと筆者はいっている。汪兆銘は胡適の主張を実現していると、中国がソビエト化するといって、日本との妥協の道を探った。こうした決意が多くの都市を陥落させらても、国を支えていたのだと思うと筆者がいっていた。


5章 太平洋戦争
日本とアメリカの国力の差は秘密になっているどころか、強調されていた。それを大和魂で乗り越えるのだというわけだ。開戦にあたって知識人や一般の人々の思いは共通で、いよいよかというもの。モヤモヤしたものがスッキリしたというような感想だ。

軍部が天皇を説得するために持ち出した理論。3か月で中国との戦争を終わらせるといったのに4年戦っていて、さらに英米と戦うとなり、天皇もさすがに心配していた。軍部は日本がアジアの国々と新秩序を創ろうとしているのを英米が邪魔している。このままでは大坂冬の陣みたいに、勝てない状況になるので戦うなら今しかないという。さらにはソ連とドイツの間を日本が取り持って、ドイツにイギリス戦に集中させて、イギリスを屈服させてアメリカの戦意をなくすとかすごい仮定論を展開していた。また船の製造や消耗の計算が甘く、またはアメリカの増強ぶりがものすごく、開戦したら、まったく予想外に船を消耗していったなどのことが起こった。

中国は上海などで日本に激しく抵抗した。その背後には武器を中国に売るドイツ。パイロットを送り込んで、援助するソ連。借款などで支援するアメリカ・イギリスがいた。ソ連は中国が日本を引き受けて時間稼ぎをしてくれるのを望み、ドイツは経済復興のため、その後日本と同盟を結んでからはやめたけど、アメリカ・イギリスは中国が日本に負けるのを望まなかったので動いていた。日本はこうした中国への援助のルートを閉じるためにフランス領インドシナに進出しようとする。これには資源を確保する狙いもあった。

中国はアメリカから援助を引き出すために、共産化の脅威、シンガポール陥落によるイギリスの弱体化、アメリカの航空機で日本を攻撃することで、日本の海軍力を削ぎ落せるとアメリカを説得し、飛行機の援助を引き出す。日本はかなりの暗号を解読していたので、この事実を知って焦っていたはず。

ここで政治的・経済的圧迫から日本が戦争をえらばざるえなかったという意見に反論、国内政治でヨーロッパの戦争に不干渉としていたのに、ドイツの快進撃に欲がでてくる。そしてナチスみたいな全体主義がよいという考えも生まれてくる。陸軍ではドイツのイギリス上陸作戦が成功したら、南進して自給自足圏をつくるなどの考えや、アメリカに中国との戦争を終わらせる仲介をさせるなどの案があった。そんななかイギリスのチャーチルがアメリカを説得、アメリカからイギリスへの武器輸出が始まる。

1941年7月2日の御前会議「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」は重要な決定がやすやすとされた会議だった。ここで南部仏印進駐が決定され、それに応じてアメリカが日本に制裁として石油の禁輸と在米資産の凍結をおこなった。
1941年4月13日松岡洋右はソ連と中立条約を結び、ソ連から中国への武器輸出をやめさせるのに成功。これで日独伊三国同盟+ソ連で勝てる目がでてきた。しかし6月22日に独ソ戦が勃発。松岡はそれなら北進してドイツとともにソ連を滅ぼそうと北進論を唱える。しかしアメリカの仲介を期待していた陸軍省軍務局と海軍がこれをけん制、南進を決める。かれらは、フランス領に進出してもアメリカは報復してこないとふんでいたが、それは間違いだった。
アメリカが素早い報復にでた理由は1941年9月28日にドイツを退けるために、アメリカとイギリスがソ連と結んだ軍需物資をおくる協定によるもので、ソ連を勇気づけるためのものだった。

1941年9月6日の御前会議で、しばしの平和のあと手も足もでなくなるよりは、初戦の勝利にかけた方がいいと大坂冬の陣で説いた軍部。実は日中戦争の間もへそくりをして太平洋戦争にそなえていたことがわかっている。だから、この時点では日本の兵力はアメリカといい勝負だった。でも、これは一瞬のことで、圧倒的な生産量でアメリカがあっという間に圧倒することになる。

11月15日山本五十六の提案した真珠湾奇襲作戦が了承される。これは桶狭間の戦いに例えられたそうだ。これは真珠湾の中にいある艦隊を飛行機からの魚雷攻撃で撃沈するというもの。アメリカは奇襲作戦までは読んでいたが、真珠湾の深さが12mであることから魚雷ネットなどの装備はしていなかっため攻撃は成功。日本軍は鹿児島湾で魚雷をそっと海に投下して、浅い湾で攻撃する訓練をしていたのだ。また日中戦争でパイロットの技量は高かった。

当時国土が広大で人的物的資源に優れているソ連、アメリカ、中国、植民地を多く持つイギリス以外の国では持久戦を戦うことはおそらくできない。ドイツは1938年くらいまでは中国に武器輸出を半分以上集中させて、資源のある国と協調するという合理的な政策をとっていた。これが転換するのは共産主義への恐怖からである。ソ連がまじめに世界の共産化を行おうとしていると確信したドイツは中国と距離をおき、ソ連をけん制するために日本と手を組む。
軍人水野廣徳は日本は資源がなく、国家の重要物資の8割を外国に依存しており、通商関係の維持が生命線で、日本は経済戦、持久戦に勝てないので戦争する資格がないといった。しかしこうした論は受け入れられず、持久戦でなく短期決戦でとなってしまう。

日本の戦死者は太平洋戦争の最後の1年半に87,6%がなくなっている。全体の死者は310万人。1944年6月19日から20日にかけてマリアナ沖海戦でアメリカに敗北した時、日本の敗戦は決定していたのに、戦争が続行されたからである。ミッドウェーの段階ではまだ蒋介石とイギリスの間に摩擦もあり、陸軍のフィリピンや香港、ジャワ・ビルマ・シンガポールへの進行の成功もあり、勝ち目があった。
たくさんの戦死者を隠すために、県の新聞には戦死者の情報がのるが、ほかの県では載せないなどの情報統制をしていた。そうして全部隊の9割がなくなったなどの報道は伏せていた、しかし株などがあがっていたことから一部では英語の短波などで状況を知っていた人はいるのではないかというのが研究者の見方だ。

中国の発表によると線死傷者は軍人330万人、民間人800万人。台湾、朝鮮、南洋諸島の植民地や委任統治の人々の苦労。国家総動員法で日本の炭鉱などで働かされた労働者は朝鮮の人口の16%に上るといわれている。
しかし、日本人は反省より、犠牲に注目してきた。多くの若者が遠い戦場で命を落とし、死んだ場所もわからず骨も拾えない状態に対する悲しみが大きかったのだ。
またソ連が満州に侵攻した時、そこには民間人150万人、軍人50万人がいた、そのうち63万人がシベリア抑留になり6万6400人が亡くなったといわれている。また引き上げの途中で24万5400人が亡くなったといわれている。ちばてつや、赤塚不二夫、安倍公房なども引揚者である。戦後の日本の人口の8.7%が引揚者だったのだ。こういった過酷な体験が被害者や労苦の面で戦争が語られがちな理由であろう。
しかし、その根本は日本政府の政策であったことを忘れてはならない。
満州への移民を募るために、政府はそこを乳と蜜の流れる土地などと宣伝し、それが嘘だと広まると村ごと移住する人たちにお金を出す政策を始めた。長野県の郷土史家が書いた「満州移民」はそうした実態を伝えるものである。こうして移住した村の中には現地人と良好な関係を築き、ソ連が来た時には現地の農場などを委譲することで、現地人に安全地帯まで道案内してもらうなど、ほとんど被害をださずに引き上げた村もあるという。

日本軍の捕虜の扱いはひどかったことがデータからわかっている、ドイツ軍のアメリカ兵捕虜の死亡率1.2%、日本は37.3%。自国の軍人さえ大切にしない態度が捕虜の扱いに現れている。ジャングルで死んだ兵士たちは戦死者より餓死者が多いといわれている。敗戦まじかのころの国民の摂取カロリーは1933年時点の6割におちていた。41%が農民だったのに、農民のなかの技術を持つ人を徴収してしまったので、44年45年は大きく収穫が落ち込んだのだ。ドイツは国民に配給する食料は減らしていなかった。

太平洋戦争は兵士、国民ともに悲惨であり、朝鮮から連れてこられた労働者や捕虜がルールを守らない強制労働をさせられていた。しかし、そうした記憶は、自分の悲惨な体験で上書きされて、忘れ去られてしまう。


1次資料から起こして考えるという歴史研究の姿勢がよく出ている講義で、文系の学問というものに尊敬の念と価値をみいだせる内容になっていると思う。


それでも、日本人は「戦争」を選んだ

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

  • 作者: 加藤 陽子
  • 出版社/メーカー: 朝日出版社
  • 発売日: 2009/07/29
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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